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腎臓内科医の診療日記 No.73

4月になって、新しく研修医がたくさん入ってきた。皆、子供の頃からの夢だった医師としての社会人生活が始まり、早く一人前になって病気で困っている人を助けてあげたい、という明日への希望と意欲に溢れている研修医ばかり、ではたぶんないと思う。知らんけど。

医学部は一般的に大学入試の中でも難関と言われていて、それなりに受験勉強を頑張る必要がある。私も高校時代にそれなりに勉強を頑張って医学部に入学したけれど、大学に入ったとたんに、勉強する気が全くしなくなった。やりたい事もなかったので、授業はサボって、サークル室で寝ているか、麻雀をしながら怠惰な日々を過ごした。今の若い真面目な人たちからすると、とんでもない話かもしれないが、当時の大学生は授業よりも、部活や趣味、バイトに時間を費やす人がたくさん居た。私はその中でも生産性が全くない生活をしていたので、タチが悪かった。今は大学も厳しくなって、講義の出席率は高いようだけれど、当時は1学年100人いる中で、講義に出席しているのは5人とか10人とかいう講義も多かった。自分はそこに居なかったので、閑散とした講義室の記憶すら自分の中にはない。勝手に想像するに、当時授業に出席していた数人も、将来良い医者になるために頑張ろうと思って出席していた人はほとんどいなくて、「今日は他にやる事ないし、一応授業でも出ておくか」という感じだったと思う。知らんけど。私は、テストやレポートは、受験を見据えて高得点を目指していた高校までと違って、単位を落とさなくて済む最低ラインの60点をクリアできる程度に頑張った。たまにクリアできずに追試験を受けたが、運よく留年はしなかった。

学年が上がって、ポリクリという名の臨床実習が始まると、自分はもうすぐ医者にならなくてはいけない、という当たり前のコトを突き付けられた。大学生活のモラトリアム沼にはまり、勤労意欲など皆無だった。学生指導の教官から「君は将来どの診療科を希望しているのか」と聞かれると困った。ハッキリ言ってしまえば、「医者の仕事」がやりたくて医学部に入った訳ではなく、医者は喰いはぐれない安定した職業だと周囲から勧められ、何となく進路を決め、難易度の高いゲームに挑戦する感覚で大学受験して、運よく入学してしまったに過ぎないのである。そんな医学部生は、昔も今もたぶん多いんじゃないかと思う。知らんけど。私は、新しい実習先で毎回聞かれるその質問に、「将来は船医にでもなろうと思います」と、テキトーに答えていた。教官は、ヘンなヤツに話を振ってしまったという表情で、私から目をそらした。国家試験の勉強もやる気が起きなかったので、試験に落ちたらインドを放浪しようと思う、とか周囲に負け惜しみ的な事を言いながら、適当に勉強してダメ元で国家試験を受けた。私は基本的に臆病なので、試験に落ちても、インドなんか怖くて行かなかったと思う。国家試験から合格発表までのまとまった休みの間に、比較的安全と言われていたトルコに初めて海外1人旅に出かけ、現地でレンタルバイクを借りて、カッパドキアの奇岩地帯をバイクで走り回った。帰ってきたら、何故か試験に合格していて、研修医として働きはじめることになってしまった。

研修期間を終えて、少しだけ紆余曲折を経てから腎臓内科の仕事を始めた。学生の頃はわからなかった「医者の仕事」は、実際にやってみると面白く、重症患者を受け持って夜遅くまで仕事をすることや、休日に呼び出されることも、さほど苦にならなかった。透析シャントの手術も、とても楽しかった。何年かして、同期の医者のほとんどが博士号を取得するために大学院に進んだが、大学が積極的に取り組んでいる基礎研究や臨床研究には、普段の業務ほど興味が持てず、自分がやる意義を見いだせなかったので、大学院には進まなかった。自分の業務に必要な最低限の専門資格を、頑張って取得した。専門以外の知識も独学で勉強したが、あれこれ資格を集めようとは思わなかった。資格の維持のためには年会費の支払いや学会参加などの手間がかかって、搾取され続ける制度にも違和感があった。知識を学んで診療に役立てることは、専門資格がなくても出来ることだった。人に認めてもらわなくても、自分で自分を認められれば、それで良いだろうとカッコつけてきたのかもしれない。知らんけど。

ところで、私の好きな芸能人のビートたけしは、楽屋で「あー、褒められてーなー」とよく言っていたそうで、私と同い年の安住アナウンサーも、「男の人は、私は特にそうですけど、褒められたい欲求が強いですからね」と、正直に告白している。大物は、さすがである。